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死者の声聞く

05623_2 炎天下の6月23日 / 糸満の道々 死者の声聞く / 見開いたその眼は 眠らない / 沖縄

 左の絵は文昭さんの「冬を暖める野菜」(05年6月23日)、上の詩は、それに添えられていた暁子さんのものです(「詩画集」より)。

 この詩を読みながら、つい最近読んだ本を思いました。大田昌秀さんが1972年に著した「沖縄のこころ-沖縄戦と私-」(岩波新書)です。沖縄師範学校の生徒として鉄血勤皇隊に配属され、沖縄戦に従軍した経験を後の蒐集された豊富な資料をもとに淡々と描いておられるものです。その最後の章「おわりに」に以下のような一節があります。少し長いですが・・・・。

「久米島は、沖縄本島の南西およそ48カイリの海上にあり、周囲が40キロ余、戸数が2500戸、人口が1万2千人ほどの小さな島である。この島には、山頂にレーダーをすえつけ、通信任務にしたがう海軍兵が、鹿山隊長を入れて30人ほどいるだけで、防備らしい防備もなかった。

 米軍は6月23日に沖縄本島を攻略した後、周辺の離島に攻撃のホコ先を向け、3日後に久米島にも上陸した。米軍は上陸に先立ち、沖縄本島、嘉手納の捕虜収容所にいた同島出身の仲村渠(なかんだかり)明勇さん(25歳)に宣撫員として同行を求めた。仲村渠さんは、郷里の人々を救うことが出来るならば、と危険を感じながらも同意した。米軍が上陸に際し、軍艦3隻で艦砲射撃をしようとしたのを、かれは、久米島が無防備だということを告げて止めさせた。そして郷里の住民たちに、沖縄本島も占領されてしまったから、無益な抵抗をやめ山を降りて自分の家へ帰るように説いた。

 これが友軍兵士からスパイ活動をしたとしてねらわれ、日本が降伏してから3日目の8月18日、仲村渠さんは、久米島仲里村の銭田という部落で、妊娠中の妻シゲさん(26歳)、および長男の明広ちゃん(2歳)もろとも惨殺された。しかも鹿山隊長以下の友軍兵士は、一家の死体を家ごと焼き払った。

 2日後、具志川村字上江洲に住んでいた朝鮮人の谷川昇さん一家も、スパイ容疑を受けて日本刀で斬殺された、妻のみち子さんをはじめ、長男(12歳)、次男(6歳)、長女(8歳)、次女(3歳)のほか乳のみ児まで犠牲になった。昭和47年4月4日付けの一地方新聞は、ほかにも同様の殺害事件があったことを・・・・・。こうして久米島における戦争犠牲者40人のうち、兵士を含め29人までが友軍の守備隊兵士によるものであったという。

 ・・・・(中略)・・・・。

 久米島の住民虐殺事件は、復帰を1ヶ月後にひかえたさる4月4日朝(1972年)、鹿山元隊長がJNN系テレビ・ニュースに出演し、殺害された人々の遺族や関係者の目前で、「指揮官として当然のことをしたまでで、謝罪する気はない」と、開き直る態度に出たことから、20数年の歳月を超えて一挙に表面化した。同日の『沖縄タイムス』は、テレビ対決の模様をくわしく報じているが、ちなみにそれによると鹿山元隊長は、報道された事件のあらましにほとんど間違いがないことを認めた上で、次のように発言している。

 「私は日本軍人として戦争に参加し、米軍が進駐したばあい、軍人も国民も、たとえ竹槍であってもうって一丸となって国を守るのだという信念、国の方針で戦争をやってきた。だから敵に好意をよせるものには断固たる措置をとるという信念でやった。(後略)」

 テレビを視聴していた沖縄の住民は、わが耳をうたぐった。だが、聞きちがいではなかった。」(同書 215~218ページ)

 星野文昭さんは、1971年11月14日、こうした沖縄のみなさんの思い、「死者の声」(歴史)に真正面から向き合い、闘い抜いたのだ。あの日、決起した多くの労働者、学生がそうであったように。

 「在特会」が跋扈し、田母神元航空幕僚長などの輩が蠢く今こそ、私たちは、あの1971年当時の安保・沖縄決戦に決起した多くの労働者、学生の想いに学び、真正面から自らの日本人(ヤマト)としての立ち位置を見据え、日米安保改定50年を迎えた今を闘い抜いていくことが必要ではないだろうか。

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