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2010年1月

1月23日 街頭宣伝

10123  1月23日(土)、JR元町駅前で、星野文昭さんの即時釈放と第2次再審開始を求める署名活動を、6人の参加で行いました。

 前日の足利事件の法廷で、虚偽の自白の供述を菅家さんに強制した検察官が、「謝罪してくれ」と願う菅家さんの問いに口を閉ざしたまま何も答えなかったことなどを引き合いに出しながら、検察、警察のでっち上げ、冤罪の問題を訴えました。

 また、普天間基地閉鎖、辺野古新基地建設反対、基地撤去の沖縄の人々の60年にわたる血叫びに星野文昭さんが獄中から応えておられることを訴えて、星野さんの不屈の闘いを訴えました。10123_2

 風もあって寒さが厳しい中、署名は17筆でした。上の写真の奥の方の女性たちが署名をしてくれているのですが、うまく撮れませんでした。

 次回の署名活動は、2月20日(土)午後2時から、同じJR元町で行います。

 

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奥深山さんへの審理再開攻撃を許すな!

10119 昨日、1月19日の神戸新聞(右)に、公判停止になって30年になる奥深山(おくみやま)幸男さんの審理が開始される方向に進んでいることが報じられました。

 何よりも、この攻撃は病気療養中の奥深山さんへの殺人・人格破壊攻撃にも等しいという点で断じて許されません。

 30年にわたる闘病生活を強いられている奥深山さんへの検察による「訴訟能力あり」との鑑定は、その一つの山上鑑定が、03年2回だけ奥深山さんを訪問し、それ以降5年間も何の報告もしないまま、昨年7月14日の星野さんへの最高裁による再審特別抗告棄却決定の日に5年ぶりに訪問し、主治医の現状の病状報告、投薬状況などを全く鑑定の資料とせず、強い薬が出され続けているのに、本人の口から「よくなった」という言葉がでたことを唯一の根拠とした、科学的根拠のない全くとんでもない鑑定なのです(この部分は08年11月星野全国集会での山本志都弁護士の報告を引用しています。同全国集会報告集より)。

 同時に、山上鑑定人が最高裁の棄却決定の日に奥深山さんを訪れていることが示すように、星野文昭さんが着ていた上着が薄青であり、犯人とされる男が着ていたとされる「きつね色」ではなかったことを最高裁は認めざるを得なかったにもかかわらず、再審を開始しない決定を行うという犯罪を犯していることを塗り隠し、開き直るために、30年も経た今、奥深山さんの命を奪いかねない審理開始を行おうとしているのです。本当に許されません。星野文昭さんの第2次再審を求める行動が開始されたことに対する報復攻撃でなくてなんでしょうか。

 そこには、沖縄の人々を先頭とした新たな沖縄闘争の高揚局面が切り開かれつつある今日の状況に恐怖した、国家権力によるグラグラになりながらも反動的なとりかえし、反撃という流れの中で起こっていることを見据えなければなりません。こうした許し難い奥深山幸男さんへの、そして星野文昭さんへの殺人攻撃ともいえる企みを許さず、新たな「渋谷暴動」キャンペーンを粉砕することが必要です。沖縄闘争、普天間基地閉鎖の闘いとともに、街頭で、星野文昭さんへの「冤罪」攻撃を暴露し、第2次再審の扉をこじ開けよう! 奥深山さんを守ろう!

 兵庫・星野文昭さんを救う会では、1月23日(土)午後2時~3時、JR元町駅東南角の歩道で、星野さんの第2次再審と、即時釈放を求める署名と宣伝を行います。お手伝いいただける方は、お集まりください。

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死者の声聞く

05623_2 炎天下の6月23日 / 糸満の道々 死者の声聞く / 見開いたその眼は 眠らない / 沖縄

 左の絵は文昭さんの「冬を暖める野菜」(05年6月23日)、上の詩は、それに添えられていた暁子さんのものです(「詩画集」より)。

 この詩を読みながら、つい最近読んだ本を思いました。大田昌秀さんが1972年に著した「沖縄のこころ-沖縄戦と私-」(岩波新書)です。沖縄師範学校の生徒として鉄血勤皇隊に配属され、沖縄戦に従軍した経験を後の蒐集された豊富な資料をもとに淡々と描いておられるものです。その最後の章「おわりに」に以下のような一節があります。少し長いですが・・・・。

「久米島は、沖縄本島の南西およそ48カイリの海上にあり、周囲が40キロ余、戸数が2500戸、人口が1万2千人ほどの小さな島である。この島には、山頂にレーダーをすえつけ、通信任務にしたがう海軍兵が、鹿山隊長を入れて30人ほどいるだけで、防備らしい防備もなかった。

 米軍は6月23日に沖縄本島を攻略した後、周辺の離島に攻撃のホコ先を向け、3日後に久米島にも上陸した。米軍は上陸に先立ち、沖縄本島、嘉手納の捕虜収容所にいた同島出身の仲村渠(なかんだかり)明勇さん(25歳)に宣撫員として同行を求めた。仲村渠さんは、郷里の人々を救うことが出来るならば、と危険を感じながらも同意した。米軍が上陸に際し、軍艦3隻で艦砲射撃をしようとしたのを、かれは、久米島が無防備だということを告げて止めさせた。そして郷里の住民たちに、沖縄本島も占領されてしまったから、無益な抵抗をやめ山を降りて自分の家へ帰るように説いた。

 これが友軍兵士からスパイ活動をしたとしてねらわれ、日本が降伏してから3日目の8月18日、仲村渠さんは、久米島仲里村の銭田という部落で、妊娠中の妻シゲさん(26歳)、および長男の明広ちゃん(2歳)もろとも惨殺された。しかも鹿山隊長以下の友軍兵士は、一家の死体を家ごと焼き払った。

 2日後、具志川村字上江洲に住んでいた朝鮮人の谷川昇さん一家も、スパイ容疑を受けて日本刀で斬殺された、妻のみち子さんをはじめ、長男(12歳)、次男(6歳)、長女(8歳)、次女(3歳)のほか乳のみ児まで犠牲になった。昭和47年4月4日付けの一地方新聞は、ほかにも同様の殺害事件があったことを・・・・・。こうして久米島における戦争犠牲者40人のうち、兵士を含め29人までが友軍の守備隊兵士によるものであったという。

 ・・・・(中略)・・・・。

 久米島の住民虐殺事件は、復帰を1ヶ月後にひかえたさる4月4日朝(1972年)、鹿山元隊長がJNN系テレビ・ニュースに出演し、殺害された人々の遺族や関係者の目前で、「指揮官として当然のことをしたまでで、謝罪する気はない」と、開き直る態度に出たことから、20数年の歳月を超えて一挙に表面化した。同日の『沖縄タイムス』は、テレビ対決の模様をくわしく報じているが、ちなみにそれによると鹿山元隊長は、報道された事件のあらましにほとんど間違いがないことを認めた上で、次のように発言している。

 「私は日本軍人として戦争に参加し、米軍が進駐したばあい、軍人も国民も、たとえ竹槍であってもうって一丸となって国を守るのだという信念、国の方針で戦争をやってきた。だから敵に好意をよせるものには断固たる措置をとるという信念でやった。(後略)」

 テレビを視聴していた沖縄の住民は、わが耳をうたぐった。だが、聞きちがいではなかった。」(同書 215~218ページ)

 星野文昭さんは、1971年11月14日、こうした沖縄のみなさんの思い、「死者の声」(歴史)に真正面から向き合い、闘い抜いたのだ。あの日、決起した多くの労働者、学生がそうであったように。

 「在特会」が跋扈し、田母神元航空幕僚長などの輩が蠢く今こそ、私たちは、あの1971年当時の安保・沖縄決戦に決起した多くの労働者、学生の想いに学び、真正面から自らの日本人(ヤマト)としての立ち位置を見据え、日米安保改定50年を迎えた今を闘い抜いていくことが必要ではないだろうか。

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沖縄基地の、いま。星野さんの、いま。

Photo

鳩山政権が決断ができず、とりあえず「普天間基地移設」問題は先送りされました。いよいよ焦点は、1月24日に投票日を迎える名護市長選挙に移ったかに見えます。
 先日12月14日に「沖縄から基地をなくせ!兵庫県集会」で講演されたヘリ基地反対協代表委員の安次富浩さんは、「移設ではない。閉鎖だ」と明快に問題点を指摘しました。市街地のど真ん中にある米軍基地・海兵隊の戦闘機やヘリコプターの演習による爆音、沖縄国際大学における墜落事故に見られるように、普天間の街の現状は深刻な人権問題となっています。安次富さんは、エクアドルのマンタ基地の撤去やフィリッピンの例を示しながら、「基地を撤去する条件として代替え地を提案した国がありますか」と訴えかけました。日本を超える駐留米軍を抱えるドイツでさえ、日本の「おもいやり予算」の10分の1しか負担していません。日本はこれまで、米軍支援に30年間で5兆3千億円も国民の税金を投入しています。こんなうまい話しを米軍が手放そうとしないのは当然です。どこに日本という国の「主体性」はあるのでしょうか、と安次富さんは話しました。
 「本来、基地を閉鎖することが問題なのであり、悲惨な現状はアメリカ政府も認めているのだから、鳩山政権は基地の閉鎖を要求すればいい。なにを躊躇する必要があろうか」と、明快に方向を示しました。
 同時に、ジュゴンやアジサシなどいくつもの辺野古の自然の写真を示しながら、平和とは、環境を守ることでもあるのだと指摘された上で、つい先日、大浦湾で環境団体が行った調査で36種ものエビやカニの新種が発見されたのに、「環境アセスメント」の名のもとに3年もかけて行われた防衛施設局の調査では報告されず、明らかに隠されていると安次富さんは糾弾しました。09118
 11月8日、宜野湾市で開かれた県民大会(右写真)が、2万1千人の結集のもとに「普天間基地の国外移設」「辺野古新基地建設反対」を「基地撤去」の願いを込めて決議したことを報告し、「神戸で、こういう平和の問題で2万1千人も集められますか」と私たちに問いかけました。
 いまも獄中にある星野文昭さん。彼の不屈の闘いは、この沖縄の皆さんの、いまも闘い抜かれている米軍基地撤去の願いと一つです。1971年11月14日、星野さんは「基地つき沖縄返還協定」に反対する多くの労働者、学生とともに敢然と決起しました。それゆえに、国家権力によって、沖縄闘争へのみせしめとして冤罪事件をでっち上げられ、殺人罪の汚名を着せられ35年の長きにわたる獄中生活を強いられています。しかし、星野さんは、そうした弾圧に屈することなく、いまなお沖縄の皆さんの願いに応え、「基地撤去、日米安保体制打倒」を獄中から叫び続けています。
 沖縄闘争の新たな高揚を沖縄の皆さんとともに作り上げる中で、獄中35年の星野文昭さんを一日も早く奪い返し、再審・無実を実現しましょう。ここにこそ勝利の道が。

(「兵庫・星野さんを救う会ニュース」第22号より転載。「ニュース」は今日皆さんのところに発送させていただきます。最初の星野文昭さんの絵は、2004年「冬を暖める野菜たち」です。)

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今月のカレンダー

Photo私は無実だ。私はやっていない。
 中村巡査への殴打をしていない。
 火炎びん投てき命令をしていない。
 これは一点の曇りのない真実だ。
 にもかかわらず、35年の投獄と、23年の無期刑を強いている。
 一体、こんな理不尽なことが許されるのか。心の底からの怒りで一杯だ。
 無実なのに、無期を強いられる、それがどれほど理不尽なことなのか。
 無実なのに、半永久的に監獄に閉じ込め、妻、家族、友人、全ての人々との直接のまじわりを奪い、自由な人間的生活を奪う。徹底的な服従の下で人間的尊厳が侵される、人生そのものが奪われる、これほど理不尽なことがあるだろうか。」

 11月27日、第2次再審請求書と一緒に提出された星野文昭さんの獄中からの陳述書の冒頭の部分です。

 私たちは、この星野さんの陳述書に込められた火のような想いを自らのうちに取り込まなければならないと思います。本当に多くの人々にこの冤罪を伝え、救援運動として、本当に幅広いものを作っていかなければなりません。

 それだけに12月21日の「星野さんを取り戻そう!全国再審連絡会議」運営委員会において、私たちについて以下のように確認されたことを非常に残念に思います。

 「『兵庫・救う会』が独自のニュースを発行し、1月から会員の『再登録』を行うと表明している件について検討しました。『ニュース』12月1日号は、事務局が送った質問に答えないと明記しています。そして、再審請求書提出も全国集会も一言も書いてありません。結論として、対外的に文書等で公表はしませんが、『星野全国再審連絡会議とは無縁である』と確認しました」と。

 ニュースはこれまでも、「再審ニュース」と一緒に送り続けておりました。また、「事務局が送った質問に答えない」理由も明らかにしてきました。また、このブログにも問題とされる「ニュース12月1日号」を掲載しております(http://hyogo-hoshiokyuuen.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-b1a7.htmlをクリックしてご覧ください)。それがなぜ「無縁」となるのか理解できません。

 私たちは、星野文昭さんを取り戻すためにこそ、こうした「排除の論理」を捨てるべきであることを今一度訴えます。全国の星野文昭さんに心を寄せておられる皆さんとともに、私たち「兵庫・星野文昭さんを救う会」は、このような困難にくじけて星野文昭さんの厳しい現実をともに乗り越え、獄外へ、家族や私たちの下に奪い返すことはできないということを確信し、新しい年、皆さんとともに進んでいくことを望んでおります。ともに頑張りましょう。

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