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第二次再審署名活動を行います

 獄中で34年間闘い抜く星野文昭さんの第二次再審を求め、即時釈放を求める署名活動と宣伝を、10月24日(土)午後2時~3時、JR元町駅前で行います。

 奈良原追放に敗れた謝花昇は、沖縄に選挙権を求め、国会議員を求めて参政権運動、民権運動に命をかけて奔走した。そして1899年(明治32年)の議会において、沖縄に選挙法を施行する案が上程されたものの、結果は先送りされた(12年後に実施)。翌年2月、足尾鉱毒事件をめぐる川俣事件が起こり、田中正造が議会に対し「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国の儀につき質問書」を提出し、政府と議会を糾弾。野に下った。この二人が知り合っていたという。

「相会する東西の先駆者、しかも事志と違って悶々たる心情に帰らなければならなかった二人、いかに語り合い、いかに激励し合い、しかもいかに慰め合ったことであろう。

 われわれは義人田中正造の生涯を思うとき、特にその謝花と相似る事はなはだ多きを思い出さざるを得ぬ。彼の一生は藩閥と暴吏と悪資本家財閥との闘争によって終わっている。幾度か牢獄の門をくぐり、社会の誹謗、嘲笑を受けつつしかも不撓不屈、少しも世と妥協することなく、少しも節を屈することなく最後に全く不遇の中に窮死した。・・・・(中略)・・・・、二人はともに数十万の農民を率いつつ、ついに解放の彼岸を見ずむなしく死ななければならなかった。その晩年の運命はともに悲惨の極、田中は市井の放浪者のごとく窮乏と苦悩の中にあり、じかも自らその苦境を嘲笑して「辛酸すこぶる佳境に入る」と称したと言われている。その死するや全く辛酸佳境の絶頂にあったわけであり、謝花は後述のごとく狂気(本文のママ)してむなしくなった。世の先駆者の受くる運命は大方かくのごとくあるけれども、さりながらなお思い出して一掬の涙なきを得ぬものである。」(「沖縄の自由民権運動――先駆者謝花昇の思想と行動」大里康永著 188ページより)

 この二人について、これが事実ならば、凄いの一言に尽きる。

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