辺野古新基地建設反対
ゲーツ米国防長官が、「日米軍事同盟強化」を進めようとする鳩山政権に対し、普天間基地移設の代替え案や先延ばしを拒否したことが、今朝の新聞に大きく報じられている。 辺野古基地建設が、「米軍再編」の柱であり、普天間基地問題の解決のためなどではないからだ。断じて許せない。沖縄県民の闘いに応え、辺野古新基地建設反対の取り組みを強めよう!(右写真は、09年1月27日撮影)
「・・・・・真壁の前に、カーブヤー(蝙蝠)ガマという大きな壕があるんですよね。そこが何部隊か知りませんが、軍隊が使用していましたのでね、そこへ行きましたら、はいり口は非常に大きくてですね、この公民館の広さくらいありましたんです。入口にススキがいっぱいしげっていましたが、そこに友軍が二、三人いましたので、恐れ入りますが、わたしたちははいる壕がありませんから、私たちの家族を入れて下さいませんかとお願いしました。そうしたら兵隊さんたちは、口をそろえて大声で、『できない、おまえたちは戦争のじゃま者だ』とまたどなられました。・・・・」(北中城村 安里要江さん 当時25歳)
「・・・・そのあとで、校長先生が、いいか、とおっしゃって、自分の奥さんの首を剃刀で切ったんです。奥さんは私のすぐそばにいました。うなる声と、血がすーっと出るらしい音が聞こえました。そして奥さんは、私はまだよ、まだよ、とおっしゃっていました。・・・・奥さんが死にかけているとき、私は子供たちに、お父さんのところへ行くんだから、こわくないね、お父さんのところに行こうね、と言い聞かせたら、子供たちはすなおに、はい、と答えていました。そのとき、また血が飛び出る音がしました。・・・・」(座間味村 宮里美恵子さん 当時29歳)
「・・・・こうして、当時47万ていどの沖縄本島の人口のうち20万近くが死んだ。生き残ったのは、沖縄本島ならびにその属島を合わせて30万名である。住民の3分の1を死なせた戦いの意味は如何。この問いはいまも鮮烈な血の色のかがやきと、もっとも鋭くもっとも重厚な意味を失っていない。それは、死者の数が莫大であるというだけではない。沖縄住民が男も女も老いも若きも総力をあげて日本軍に協力しようとしたのにたいして、日本軍は沖縄の住民に背筋の凍るような冷酷な仕打ちをもって報いたという事実をどう考えるか、という問題である。・・・・・」「・・・・日本軍は沖縄住民の善意の行為すら理解できないほど眼がくらんでいたのだろうか。いな、それは本土日本人の幾世紀にもわたる氷のように冷やかな沖縄住民への差別感、そしてそれにもとづく不信感が、沖縄戦において決定的に深淵をのぞかせた、ということなのだ。・・・」「・・・・問われるべきは、日本軍の行動とその裏側にある日本人の体質である。沖縄戦において、非人間性をみごとに暴露した日本人は、沖縄人にたいして『醜い日本人』であるばかりではない。存在それ自体として『醜い日本人』なのである。・・・・」(著者・谷川健一の「証言の意味するもの」より)
いずれも、中公新書「沖縄の証言(上)」(1971年7月出版)より引用。
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