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2009年10月

辺野古新基地建設反対

 ゲーツ米国防長官が、「日米軍事同盟強化」を進めようとする鳩山政権に対し、普天間基地移設の代替え案や先延ばしを拒否したことが、今朝の新聞に大きく報じられている。09127 辺野古基地建設が、「米軍再編」の柱であり、普天間基地問題の解決のためなどではないからだ。断じて許せない。沖縄県民の闘いに応え、辺野古新基地建設反対の取り組みを強めよう!(右写真は、09年1月27日撮影)

 

 「・・・・・真壁の前に、カーブヤー(蝙蝠)ガマという大きな壕があるんですよね。そこが何部隊か知りませんが、軍隊が使用していましたのでね、そこへ行きましたら、はいり口は非常に大きくてですね、この公民館の広さくらいありましたんです。入口にススキがいっぱいしげっていましたが、そこに友軍が二、三人いましたので、恐れ入りますが、わたしたちははいる壕がありませんから、私たちの家族を入れて下さいませんかとお願いしました。そうしたら兵隊さんたちは、口をそろえて大声で、『できない、おまえたちは戦争のじゃま者だ』とまたどなられました。・・・・」(北中城村 安里要江さん 当時25歳)

 「・・・・そのあとで、校長先生が、いいか、とおっしゃって、自分の奥さんの首を剃刀で切ったんです。奥さんは私のすぐそばにいました。うなる声と、血がすーっと出るらしい音が聞こえました。そして奥さんは、私はまだよ、まだよ、とおっしゃっていました。・・・・奥さんが死にかけているとき、私は子供たちに、お父さんのところへ行くんだから、こわくないね、お父さんのところに行こうね、と言い聞かせたら、子供たちはすなおに、はい、と答えていました。そのとき、また血が飛び出る音がしました。・・・・」(座間味村 宮里美恵子さん 当時29歳)

「・・・・こうして、当時47万ていどの沖縄本島の人口のうち20万近くが死んだ。生き残ったのは、沖縄本島ならびにその属島を合わせて30万名である。住民の3分の1を死なせた戦いの意味は如何。この問いはいまも鮮烈な血の色のかがやきと、もっとも鋭くもっとも重厚な意味を失っていない。それは、死者の数が莫大であるというだけではない。沖縄住民が男も女も老いも若きも総力をあげて日本軍に協力しようとしたのにたいして、日本軍は沖縄の住民に背筋の凍るような冷酷な仕打ちをもって報いたという事実をどう考えるか、という問題である。・・・・・」「・・・・日本軍は沖縄住民の善意の行為すら理解できないほど眼がくらんでいたのだろうか。いな、それは本土日本人の幾世紀にもわたる氷のように冷やかな沖縄住民への差別感、そしてそれにもとづく不信感が、沖縄戦において決定的に深淵をのぞかせた、ということなのだ。・・・」「・・・・問われるべきは、日本軍の行動とその裏側にある日本人の体質である。沖縄戦において、非人間性をみごとに暴露した日本人は、沖縄人にたいして『醜い日本人』であるばかりではない。存在それ自体として『醜い日本人』なのである。・・・・」(著者・谷川健一の「証言の意味するもの」より)

 いずれも、中公新書「沖縄の証言(上)」(1971年7月出版)より引用。

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第二次再審署名活動を行います

 獄中で34年間闘い抜く星野文昭さんの第二次再審を求め、即時釈放を求める署名活動と宣伝を、10月24日(土)午後2時~3時、JR元町駅前で行います。

 奈良原追放に敗れた謝花昇は、沖縄に選挙権を求め、国会議員を求めて参政権運動、民権運動に命をかけて奔走した。そして1899年(明治32年)の議会において、沖縄に選挙法を施行する案が上程されたものの、結果は先送りされた(12年後に実施)。翌年2月、足尾鉱毒事件をめぐる川俣事件が起こり、田中正造が議会に対し「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国の儀につき質問書」を提出し、政府と議会を糾弾。野に下った。この二人が知り合っていたという。

「相会する東西の先駆者、しかも事志と違って悶々たる心情に帰らなければならなかった二人、いかに語り合い、いかに激励し合い、しかもいかに慰め合ったことであろう。

 われわれは義人田中正造の生涯を思うとき、特にその謝花と相似る事はなはだ多きを思い出さざるを得ぬ。彼の一生は藩閥と暴吏と悪資本家財閥との闘争によって終わっている。幾度か牢獄の門をくぐり、社会の誹謗、嘲笑を受けつつしかも不撓不屈、少しも世と妥協することなく、少しも節を屈することなく最後に全く不遇の中に窮死した。・・・・(中略)・・・・、二人はともに数十万の農民を率いつつ、ついに解放の彼岸を見ずむなしく死ななければならなかった。その晩年の運命はともに悲惨の極、田中は市井の放浪者のごとく窮乏と苦悩の中にあり、じかも自らその苦境を嘲笑して「辛酸すこぶる佳境に入る」と称したと言われている。その死するや全く辛酸佳境の絶頂にあったわけであり、謝花は後述のごとく狂気(本文のママ)してむなしくなった。世の先駆者の受くる運命は大方かくのごとくあるけれども、さりながらなお思い出して一掬の涙なきを得ぬものである。」(「沖縄の自由民権運動――先駆者謝花昇の思想と行動」大里康永著 188ページより)

 この二人について、これが事実ならば、凄いの一言に尽きる。

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10月の街頭署名

2003

 星野文昭さんの第二次再審、即時釈放を求める署名と宣伝を、10月24日(土)午後2時~3時、JR元町駅前で行います。ぜひ、お手伝いください。

 「沖縄の自由民権運動 ―― 先駆者謝花昇の思想と行動」(大里康永著 1935年初版、1969年再版)を読んでいる。薩摩による言語を絶する支配から、明治政府による差別支配と収奪は文字通り沖縄の人々の人間性を奪い、「沖縄人には学問など学ばしむべからず」とさえ言われる状況を生み出した。とりわけ奈良原県政による独裁的差別支配は凄惨を極め、沖縄民衆の活力をとことん貪り奪うものであった。謝花昇は、これに抗い、沖縄民衆の人権と自主を求めて先駆的に闘い抜き、そして倒れた。

 当時の歴史状況を様々な角度から掘り起こし、描く著者の想いに、沖縄の民衆と謝花昇へのほとばしるような熱い想いを感じる。「明治新政府」、「ご維新」の名の下に進められた明治の40年にわたる差別と収奪。天皇支配と皇民化教育。沖縄戦の惨劇。そして、明治から半世紀も経ることなく行われた米軍支配への「琉球処分」の30年と、今も続く米軍基地支配。このことへの人間的怒りと沖縄の人々の「復帰」の想いへの共感。これが1971年11月14日の星野文昭さんを捉え、今もなお獄中34年を闘い抜く基盤となっているのであろうと思いながら読み進む。

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10月のカレンダー

10  絵は、「秋を咲くコスモス」(08.10.21文昭さん制作)。

 政権は変わったけれど、民主党の鳩山がアメリカで「日米同盟の強化」を唄い、北沢防衛相が、沖縄を訪問しながら「必要ない」と辺野古の座り込みの現場を訪れることもなく官僚どもと会うだけで済ましたように、民主党連立政権の基本的姿勢は自民党の日米安保軍事同盟政策を引き継ぐものでしかないことを、早くも明らかにした。

 こうした時代状況の中で、星野文昭さんを奪い返す闘いをどう作っていくのか。

 「政権交代」が、50年にわたる自民党支配に対する労働者、農民、漁民、市民の、そして「部落民」をはじめとする被差別民衆の怒りの決起によって勝ち取られたことは明らか。

 1971年11月14日、星野文昭さんをはじめとした労働者、民衆は、「基地付沖縄返還」のペテンに怒り、決起した。今、私たちが、この「政権交代」の時代の中で求められているのは、自らが自民党を打倒したその力を確信し、1971年のあのうねりを超えて、労働者とともに、沖縄民衆とともに、岩国や三里塚の人々とともに、壮大な統一戦線を生みだし、この国を変えることであろう。そのうねりの中で、獄壁を破り、星野さんを取り戻すことができると確信する。 

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