死刑制度から司法のあり方を考える
一昨日、3月1日、兵庫・星野文昭さんを救う会の第2回学習会が、本会の世話人で、浄土宗大林寺の住職、木下達雄さんを講師に「人は他人を裁けるのか-死刑制度から司法のあり方を考える」と題して行われました。この日、従軍慰安婦問題や「日の丸・君が代」不起立問題、あるいは神戸市の市民病院移転問題など驚くほど集会が重なり、これは難しいかなとおもっていたのですが、19人の方が参加下さり、2時間余りの学習会が充実した中身を持ってもてることができました。
「殺人事件が減っているにもかかわらず、ここ数年死刑の執行が急増」してい る現実を背景にしながら木下さんは話された。「永山基準」と言われたできるだけ「死刑」を回避していた傾向が無視され、「遺族感情」などを根拠に死刑が執行されている。日本では08年世論調査でも80%の人が「死刑存置」の意見を持つ現実がある。しかし、大国で死刑制度が存置されているのは、日本以外ではアメリカ、中国のみ。廃止国・地域138に対し、存置国・地域は59。
木下さんは、まず日本国憲法に違反し(13条、31条、36条)、基本的人権を国家権力が破壊するとして「廃止」の必然性を明らかにされた。そもそも法的な 根拠となるものがないまま、1873年に出された「太政官布告65号」がその根拠とされるおかしさを指摘。そして裁判官の不確かさを、具体的に1949年イギリスでの冤罪による知的障害者の処刑と、その裁判官が1965年死刑廃止の運動の先頭に立って廃止が実現した歴史を示しながら冤罪による処刑の恐れなどをあげられた。(上写真が、木下達雄さん)
その上で、無期懲役が10年で仮釈放の可能性が認められていることから「終身刑」新設の動きがあることに触れられた。実際には厳罰化の流れの中で、無期囚の仮釈放が減少し(07年は3人)、獄中にあるのが平均31年以上になり、獄死が増えている(10年間で120人獄死)現実の中で、なぜ「終身刑」新設なのかと。
そして無期囚、または死刑確定囚で、再審無罪が確定したのは、戦後12件だけで、1989年の島田事件が再審無罪になって以降、再審請求は退けられ続けている。
そして日本における厳罰化が強まる状況について、国家権力による人民への支配・統合・管理の意思が強く働いていることを指摘した上で、すでに始まっている被害者の審理への参加などが被告人の権利を阻害している現実を明らかにされた。そして犯罪が減っているにもかかわらず、マスコミによる「犯罪多発」の虚偽宣伝などの問題を指摘。特に被害者、遺族の復讐感情に依拠するなどの流れに、法体系、国の在り方として異議を唱えられた。
アメリカの「産獄複合体」の話には驚いた。「90~98年に殺人事件は2分の1に。しかし、殺人事件報道は4倍に増加。犯罪率が下がった時期に監獄人口は急増」というのだ。
95%以上の人間が 「裁かれる」側におかれている差別と抑圧の社会でありながら、裁ける側にいるような錯覚に国民を陥れる「裁判員制度」。そして戦争と死刑が公然と国家権力が人を殺す国家犯罪であるとした上で、政治的反対派の弾圧の手法として死刑が存在することを指摘された。そして「裁判員制度」が被告人の防衛権を無視していることと憲法違反のデパートであると指弾された。そして刑事司法「改革」の現状を批判された。
そして最後に今後の展望として、死刑と監獄のない社会を実現しようと、提起された。そのためには「犯罪と懲罰との既存の思考方法」を止めることだと。「刑事裁判制度を刑法にもとずく復讐や懲罰でなく、補償法により補償=賠償と和解という考え方に立って編成しなおすべきではないか。法を逸脱した者=債務者という考え」と。
さらに、イギリスやフランス、ドイツに比べ、なぜ日本で今、厳罰化が進むのか。これについて、日本人の中にある「民族宗教」のようなものがあり、個の思想や民主主義の思想を本当に獲得し切れていないことが、明治以来の資本主義化の政策の中で、天皇制などにより強制されてきたことなどが木下さんから提起された。
非常に重い気分に占められ、難解な学習会でしたが、終わってみれば、一つ力を得たような達成感のある学習会でした。
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